九州帝国大学学位史(最初の博士号はだれか?)
九州(帝国)大学の学位の歴史をちょっと調べてみた、というメモ。
以下、主なソースは
あたり。
年表
まずは年表で知識を整理しておく。
年月日 | 出来事 |
---|---|
明治20(1887)年5月 | 学位令(勅令第13号) →博士・大博士、法・医・工・文・理 |
明治21(1888)年5月 | 帝国大学で日本初の博士号授与、25名 |
明治31(1898)年12月 | 学位令改正(勅令第344号) →大博士廃止、農・獣医・林・薬 ※京都帝国大学の誕生を受け |
明治40(1907)年3月 | 【九大】福岡医科大学学位授与資格審査内規を制定 |
明治44(1911)年1月 | 【九大】九州帝国大学設置 |
大正9(1920)年7月 | 学位令改正(勅令第200号) →授与権が文部大臣から大学に、帝国大学以外の大学にも拡大 |
大正10(1921)年4月 | 【九大】学位ニ関スル規程、学位請求論文審査手続を制定 |
昭和28(1953)年4月 | 学位規則(文部省令第9号)制定 →修士 |
平成25(2013)年4月 | 学位規則改正 →インターネット公表が原則化 |
大正9年の学位令改正でだいたい現在の制度ができあがった感じ。論文の提出もここで義務化されたということかな。
学位規則制定後も、昭和37(1962)年3月まで旧姓の学位が授与されつづけた点に注意。
日本で初めて博士号を授与された25名についてはレファレンス協同データベースに事例が掲載されている。菊池大麓(数学者)が入ってるのに反応。また、『日本博士全伝』(1888)には彼らを含めた50名の博士の紹介文が載っていた。
ちなみに、日本初の女性博士は保井コノさん(1927年、東京帝国大学)らしい。論題は「Studies on the structure of lignite, brown coal, and bituminous coal in Japan」。
また、日本初の外国人博士は、自分が『日本博士録』を学位ごとに調べたかぎりでは、カール・アドルフ・フロレンツさん(本籍ドイツ)のようだった。1899年6月10日、東京帝国大学論文提出、文学博士、ライプチヒ大学卒。
九大初の博士号は誰か?
そもそもこれが疑問で調べ始めたんだった。でもデータベースを叩いたくらいではさくっと分からず、やっぱり紙を見ることに。
まず、NIIの博士論文書誌データベース上でもっとも古い九州帝国大学の学位論文を調べてみたところ、大正14(1925)年の
- 山田陽清「彎曲桁及彎曲框桁ノ研究(独逸文)」(大正14年8月17日)
だった。これは九大コレクションにメタデータがはいってなかった(旧制だからかなあ)。
ただ、九大コレクションでは、それより古い大正11(1922)年の学位論文4件がヒットする。
- 西澤恭助「硫酸遭達を原料とするアンモニア遭達法の相律的研究」
- 吉田徳次郎「凍結温度ニ於ケル混凝土及其施工ニ関スル研究」
- 栗原鑑司「石炭反骸炭中の燐」
- 鷹部屋亮平「剛結構造物の基礎地盤における反力の分布に関する研究」
で、これが最古なのか?というと、結論としては違っていた。(ただし、以下で述べるように、西澤さんと吉田さんは九大で最初の工学博士だった。そしておそらくこの4人が大正11年に工学博士を取った人物すべてだろう。)
次に、参考図書コーナーでぼろぼろになった『五十年史』通史編をひもといてみると、「学位令と学位に関する規程」(pp.166-170)に
九州大学では「学位ニ関スル規程」が制定されて医学博士・工学博士を授与できることとなり、大正10年9月、はじめて藤原教悦郎・野村正一・鈴木三伯に医学博士を授けた。
とあった。この3人が初か。医からスタートなんだ。
ここには論題が記されていないが、壁際の書架においてあった若干崩壊ぎみの『日本博士録』をめくってみると、
- 鈴木三伯「臨床的(血液有形成分容量)測定法ノ研究」
- 野村正一「尿ペプシンニ就テ」
- 藤原教悦郎「血球擬集素ト血球沈降素特ニ両者ノ異同問題」
と書かれていた。文部大臣認可月日は1921年8月19日とある(上の9月との齟齬がちょっと気になる。大学での授与は9月だったというだけのことだろうか)。改めて検索してみたけどこれらのメタデータは九大コレクションには入ってないね。
再び『五十年史』に戻ると、
- 医学博士:大正10年=8名、大正11年=21名、大正12年=27名、大正13年=39名、大正14年=32名、大正15年=46名
- 工学博士:大正11年=4名(最初は西沢恭助と吉田徳次郎)、大正14年=2名、大正15年=1名
- 農学博士:昭和4年(最初は川口栄作)
という情報が得られる。
また、時代をくだって「新制学位」(pp.616-619)を見ると、最後に
32年11月19日付けをもって本規則(引用者註:九州大学学位規則)が施行されることとなり、大正10年4月に制定されていた旧制度の「九州大学学位規程」は廃止された。昭和33年3月26日、九州大学で最初に新制博士号を授与されたものは理学2人、薬学3人、工学2人、農学1人であった。
とある。ちなみに現在の学位規則はこちら。
このひとたちはNIIのデータベースにあるかなと思って、学位授与大学名=九州大学 & 授与年月日=昭和33年3月26日で検索してみたら思ったよりヒット件数が多いぞ……。医学博士がまじってるのはたぶんアレとして、ううう、同じレコードが重複しているようだ。。
『五十年史』は索引がないうえ電子化されていないので辛いんだけど、目次レベルでは、学術史下巻第7編「経済学部」のなかの「大学院研究科と旧制学位」(pp.499-501)に、経済学博士についての言及がある。
最後に、旧制度による学位論文審査規定にもとづいて、本学で学位を授与された経済学博士は次の10名である。
続いて掲載されている表をせっかくなので起こしておく。
氏名 | 学位授与年月 | 主論文 |
---|---|---|
宮本又次 | 昭和25年1月 | 江戸時代問屋の研究 |
岡橋保 | 〃26年7月 | 貨幣論 |
馬場克三 | 〃27年8月 | 減価償却論 |
高橋正雄 | 〃27年8月 | ケインズ貨幣論の研究 |
高木暢哉 | 〃27年8月 | 銀行信用論 |
小門和之助 | 〃34年5月 | 海上労働問題 |
崔虎鎮 | 〃34年6月 | 近代朝鮮経済史 |
新川傳助 | 〃35年11月 | 日本の漁業に於ける資本主義の発達 |
吉村正晴 | 〃35年4月 | 貿易問題 |
高木幸二郎 | 〃35年4月 | 恐慌論体系序説 |
学術史上巻・下巻をぱらぱらめくってみたのだけど、他の部局についての情報は見つけられなかったなあ。。
【追記2014/7/23】
『九州大学七十五年史』通史編のp.139には、
大正十年(一九二一)以来、九州大学が授与した旧制博士号は、文学博士四三名、法学博士六一名、経済学博士二二名、理学博士二〇八名、医学博士五三一〇名、工学博士四〇七名、農学博士五四一名の合計六五九二名であった。
とあった。これが旧制学位のまとめ。医学博士が8割を占めている。
また、同別巻p.604~には大正10年から昭和61年までの学位授与数が年度×学位ごとにまとめられている。それによると、新制(昭和32年~昭和61年)の学位授与数は、甲が2,069名、乙が3,724名で、合計5,793名となっている。
参考までに他の大学史も見てみると、まず、『京都大学百年史』総説編のp.295には、
その間、大正9(1920)年学位令により本学において学位を授与された者の数は、文学博士272名、法学博士94名、経済学博士80名、理学博士1,052名、医学博士5,559名、薬学博士308名、工学博士1,338名、農学博士641名の計9,344名である。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152993/1/general_part1_chap4.pdf
とある。
また、『東京大学百年史』通史編2のp.348-349には学位種類ごとの表が掲載されていて、法157、医5672、薬571、工1916、文289、理1402、農1112、経63、と分かる。計11182。
医学博士の割合は京大で6割、東大で5割なので、九大はずいぶん医に寄っていることがわかる。
ついでに『東京大学百年史』通史編1のp.972には、
一方、大学院に入り定期の試験を経て博士の学位を得るという、いわば正則コースによる博士の第一号は、明治二十四年理学博士となった齊田功太郎である。しかしこの形はほとんど一般化せず、学位令が改正される明治三十一年までに理科大学で四名、医科大学で一名のみであった。同じ時期の大学院在籍者は飛躍的に増加していきながら、学位令の条文とは裏腹に、学位取得と大学院制度は密接な関係をもたなかったといえよう。
こののち学位取得の主流となっていくのは、学位令細則第四条に規定された論文提出による学位新制だった。
とあったのでメモしておく。この方は、「学位論文で博士号を得た日本最初の人・植物学者」なんて紹介されたりしている(その表現でいいのか?)。