九州帝国大学学位史その2(明治31年学位令による授与者一覧)

前回の「九州帝国大学学位史(最初の博士号はだれか?)」というエントリでは、大正9年の学位令改正を受けて大正10年に九州帝国大学で「学位ニ関スル規程」が定められた後の時代について書いた。

しかし、その以前の期間、九州帝国大学が設置された明治44年から大正10年までの期間についても調べる必要がある(ことに、大学文書館で明治期の学位綴を閲覧していて気付かされた)。このあたりは九州大学の『五十年史』では触れられてないのではと思う(曖昧)。


学位令の変遷

まずは、学位令がどのように改正されていったのかを簡単にまとめたい。細かいところは許していただくとして、ポイントとしてはこう。

区分 学位令 授与権 授与要件
I 明治20年(勅令第13号) 文部大臣 ①大学院に入り定期の試験を経たものに授与
帝国大学評議会の議を経て授与
II 明治31年(勅令第344号) 文部大臣 ①大学院に入り定期の試験を経たものに授与
帝国大学分科大学教授会の議を経て授与
③博士会の推薦により授与
帝国大学分科大学教授で総長推薦により授与
III 大正9年勅令第200号) 大学 ①大学院に入り定期の試験を経たものに授与
②論文提出により授与

参考:http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-16.pdf

現在の制度と照らし合わせると①が課程博士、②が論文博士に相当すると言っていいようだ。③と④は大正9年に廃止された。

九州帝国大学では開学当初は明治31年学位令によって学位が「授与」されていたことになる。正確にいうと当時授与権は文部大臣にあったので、あくまで大学側は「関与した」と表現するのが適切ではあるが。このうち③博士会については各大学の枠を超えた組織なので、九州帝国大学として関わった学位については①②④について調べれば十分だ。(前身の京都帝国大学福岡医科大学時代まで遡ると明治20年学位令の話になるんだけど、それは今後の課題で。。)

なお、明治31年学位令の細則を見ると、

第三条 論文ヲ提出シテ学位ヲ請求スル者ハ其専攷シタル学科ノ範囲内ニ属スル自著ノ論文ニ履歴書ヲ添ヘ其論文ノ審査ヲ受クヘキ帝国大学分科大学教授会ヲ指定シテ文部大臣ニ申請スヘシ

とあるので、どこの帝国大学で学位を取るかは申請者本人が指定するようだ。大学文書館の学位綴のなかには、文部大臣から九州帝国大学に審査を依頼する文書が残されていて、これってどうやって審査先を決めたんだろう?といぶかしんでいたのだが、自然なオチだった。


九州帝国大学における学位「授与」(明治44年~大正10年)

ソースは『日本博士録』。目視。合計89名あるいは90名という結果になった。なぜ曖昧なのかは②を見てほしい。。

①大学院(1名)

医学博士 山本 耕橘 1920.4.27

九州帝国大学大学院卒業」とあった。

②教授会(60名?61名?)

「論題(九大)」という記述。論題を転記する気力はなし。

医学博士 野口 雄三郎 1913.8.11
医学博士 緒方 鷺雄 1913.12.3
医学博士 高木 友枝 1913.12.3
医学博士 後藤 七郎 1914.7.18
医学博士 望月 代次 1914.7.18
医学博士 榊 忠三 1914.7.18
医学博士 柏原 光太郎 1915.9.8
医学博士 北村 勝蔵 1915.9.8
医学博士 坂井 精一 1915.12.25
医学博士 東条 経治 1916.6.12
医学博士 佐藤 清一郎 1916.6.12
医学博士 戸上 駒之助 1916.6.12
医学博士 小池 重 1916.8.5
医学博士 塚口 利三郎 1917.2.21
医学博士 赤岩 八郎 1917.2.21
医学博士 橋本 策 1917.2.21
医学博士 峯 直次郎 1917.2.21
医学博士 楠 正信 1917.2.21
医学博士 橋本 正員 1917.2.21
医学博士 明石 真隆 1918.4.13
医学博士 埴 繁彌太 1918.8.26
医学博士 井戸 泰 1918.8.26
医学博士 小野寺 直助 1919.4.22
医学博士 藤沢 幹二 1919.6.12
医学博士 岩崎 徳松 1919.6.12
医学博士 溝口 喜六 1919.9.3
医学博士 井尻 辰之助 1919.9.3
医学博士 泉 伍郎 1919.12.12
医学博士 越智 貞見 1920.1.21
医学博士 間田 亮次 1920.3.19
医学博士 三田 源四郎 1920.4.27
医学博士 小野 道衛 1920.4.27
医学博士 植村 卯三郎 1920.4.27
医学博士 矢野 雄 1920.4.27
医学博士 中田 篤郎 1920.4.27
医学博士 板垣 政彦 1920.6.23
医学博士 緒方 大象 1920.6.23
医学博士 高畑 哲五郎 1920.6.23
医学博士 永田 春生 1920.7.26
医学博士 高木 繁 1920.7.26
医学博士 岩井 誠四郎 1920.7.26
医学博士 稲田 進 1920.7.26
医学博士 石田 光次 1920.7.26
医学博士 志村 宗平 1920.8.25
医学博士 金子 廉次郎 1920.8.25
医学博士 小幡 亀寿 1920.8.25
医学博士 田村 於兎 1920.10.8
医学博士 斉藤 一 1920.10.8
医学博士 高安 愼一 1920.10.8
医学博士 大平 得三 1920.11.18
医学博士 飯田 正千代 1920.11.18
医学博士 市川 鴻一 1920.11.18
医学博士 石原 亮 1920.11.27
医学博士 疋田 直太郎 1920.11.27
医学博士 古城 貞 1920.11.27
医学博士 和邇 秀恒 1920.12.27
医学博士 木村 省三 1920.12.27
工学博士 内藤 游 1921.5.21

見事に医学博士だらけ。

ただし! 調査後に見つけた超絶すばらしい基本文献「学位に関する統計―明治二〇年および三〇年学位令―」(梶田明宏)[*1]の表2-cによると、あと3人いるはずで。

医学博士 1912
医学博士 1920
工学博士 1917

大学文書館で見てきた学位綴に名前が挙がっていたこの3人ではないかと推測したんだけど、『日本博士録』ではみな東大になっているし、天兒に至っては授与年もずいぶんずれている。

  • 大黒安二郎、佐賀県ニ於ケル「ワイル」氏病(東大)、1912.2.24
  • 天兒民恵、冷血動物血清ヘモリヂンノ研究(東大)、1914.12.24
  • 丸沢常哉、亜硫酸紙料蒸煮用液ノ本性並其作用ニ関スル研究(東大)1917.11.12

そこで、国立国会図書館デジタルコレクションで当時の官報

を確認してみると、大黒と丸沢は九大が正しいようだが、天兒は東大で間違いないと分かる。

うーん。残り1人は誰なんだろう? 『日本博士録』によると大正9年の医学博士は65名で、内訳は東大14、京大17、九大29、東北大3、東大総長推薦1、九大卒業1である。梶田論文と見比べてみると、九大30としている以外の齟齬はなし。どちらかが間違っているのだろうが、それを知るには独立した別のソースを見る必要がある。。(後回し)

④総長推薦(28名)

医学博士 今淵 恒寿 1912.6.1
医学博士 小川 政彦 1914.11.11
医学博士 進藤 篤一 1917.5.14
工学博士 岩岡 保作 1911.7.25
工学博士 西川 虎吉 1911.7.25
工学博士 吉町 太郎一 1911.11.17
工学博士 荒川 文六[*2] 1911.11.17
工学博士 宇佐美 圭一郎 1911.11.17
工学博士 君島 八郎 1911.12.19
工学博士 高 壮吉 1911.12.19
工学博士 中沢 良夫 1912.6.1
工学博士 小野 鑑正 1912.8.12
工学博士 山口 修一 1912.8.12
工学博士 西田 精 1915.3.30
工学博士 菱田 唯蔵 1915.11.30
工学博士 永積 純次郎 1916.6.12
工学博士 安藤 一雄 1917.2.21
工学博士 小林 俊二郎 1917.5.14
工学博士 金子 恭輔 1917.5.14
工学博士 寺野 寛二 1917.12.27
工学博士 岡田 陽一 1918.10.21
工学博士 織田 経二 1918.10.21
工学博士 生源寺 順 1919.6.12
工学博士 森 兵吉 1919.6.12
工学博士 三瀬 幸三郎 1919.9.3
理学博士 桑木 或雄 1916.6.12
理学博士 曽我部 房吉 1919.8.27
理学博士 河村 幹雄 1919.9.13

②とは異なり工学博士が多い。当時の総長は、初代総長(明治44年4月1日~大正2年5月9日)である理学博士・山川健次郎と、第二代(大正2年5月9日~大正15年3月19日)である工学博士・真野文二、だからかな。


まとめ

九州帝国大学で初めて学位を「授与」されたのは、開学の1911年、総長推薦による工学博士、岩岡保作と西川虎吉の2名だったというのが結論。ただし、当時は授与権が文部大臣にあったので、九州帝国大学 *が* 授与したという意味での学位は、先日の「九州帝国大学学位史(最初の博士号はだれか?)」に書いたとおりになる。

残る問題は、大正9年医学博士はもう1人いるのかどうか、京都帝国大学福岡医科大学時代に学位授与されたひとがいたのかどうか……。


*1:文部省専門学務局『学位録』と門田重雄編『論文総覧日本の博士研究』(昭和二年、啓明社)は情報が少なかったり間違いがあったりという理由から、「官報での掲載を基本に、各年ごとの授与者数をひろったものがこの統計である」としている。

*2:http://www.kyushu-u.ac.jp/magazine/kyudai-koho/No.33/33_18.html